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白山火山に関する記録や記事 |
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飛鳥時代の終盤 |
706年(慶雲3年) |
8月越前に山災があって止まないので、国守が奉幣使を越前部内の神社に立てて祈った。(続日本記) |
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平安時代前期 |
926年(延長4年) |
白山くずる(年歴掌箋) |
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平安時代中後期 |
1042年(長久3年) |
良勢という名の僧が、越前室で参詣人に悪行をはたらいていた。これを聞き、加賀馬場の行者ら数十人が越前馬場へ行き、この僧を室ともども焼いた。その夜、行者たちは加賀室に泊まり、次の日、僧を一人残して帰った。その僧が加賀室に泊まっていると、夜半に大声があり「室から出ろ」といって石を室へ投げてきた。その内石を投げつけるのが雨のようになった。外へ出てみたところ山頂の方に2人の童子がいた。その童子は土石を投げ室を埋めた。土石を掘ったあとが2ケ所あり、その一つが翠ケ池である。室堂が埋まったところに、室堂の木材の端がみえた。(白山之記) |
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平安時代後期 |
1177年(治承元年) |
4月12日白山自焼(本朝年代記) |
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鎌倉時代 |
1239年(延応元年) |
白山自焼(倭漢三才図会、本朝年代記)、この年白山噴火(分類本朝年代記)、8月17日白山本宮の神主氏盛の宮倉から出火し、神社以下21宇焼失(白山宮庄厳講中記録) |
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室町時代終り頃 |
1547年(天文16年) |
5月の末から、白山は山頂から焼出し、火煙や土砂を吹き出した。(猿丸又右エ門家景由緒書)。加賀白山玄如堂火(年歴掌箋) |
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1548年(天文17年) |
白山焼く(本朝年代記) |
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1554年(天文23年) |
4月1日に、山頂より煙が上がった。山伏を遣わして、調べさせてところ、剣ケ峰の南の方が焼け上がり、大きな石を吹き上げて、白山奥宮正殿の床の間の屋根が打ち抜かれた。5月には、灰と硫黄が流れ、魚が死に、人々は川の水を飲まなかった。6月頃になると、剣ケ峰全体から煙が立ち上がった。10月8日に、大地震が起き、人々は非常に驚き、鶴来の白山本宮までも煙が充満した。活動は1556年に止んだ。(白山宮荘厳講中記録) |
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安土桃山時代 |
1579年(天正7年) |
8月26日、地獄谷より火石が降り、社や御神体を壊した。翌年の6月、織田信長が社を3つ再建した。(古今類従越前国誌) |
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1582年(天正10年) |
6月2日頃に、黒雲が出て、その中から法師の形をした者が3人見えた。(混見摘写) |
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1599年(慶長4年) |
白山が鳴った(混見摘写) |
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1600年(慶長5年) |
白山が鳴った(混見摘写) |
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江戸時代初期 |
1645年(天保2年) |
4月5日と4月26日に、白山が鳴った(混見摘写) |
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1658年(万治元年) |
9月4日に白山が鳴った(混見摘写) |
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1659年(万治2年) |
6月8日に、白山の翠ケ池の上に黒雲が出た。しばらくして、幾度も幾度も音がなり響いた後、雲の中より坊主の身なりをした者が3人、頭をならべて出現した。その後、白山は度々音を出し、その数は数え切れないくらいになった。6月18日から6月20日まで、越前の国中にあし毛の馬のようなものが降った(長滝寺荘厳執事帳) |
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昭和時代 |
1935年(昭和10年) |
3月に湯之谷川支流の千才谷にかかる千仞滝に噴気孔が出現し、当時の新聞を賑わした。 |
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1968〜1969年(昭和43年〜44年) |
カンクラ側絶壁近くは地表から熱気が出ているのか、直径70cm〜1m位の穴がいくつもある。中は暖かくかすかに硫黄のにおいがする。(伊藤仁夫氏の越冬日記) |
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(白山ガイドマニュアル、竃他白山の噴火記録、その他の古文書より) |
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